しかし最近は、日々体罰を目の当たりにして、
「なぜ体罰が必要なのだろう?」
「体罰は失くせないのだろうか?」
「叱られた内容についてなぜいけないのか、生徒は真に理解しているのか?」
「日本のやり方を導入してうまくやれないか?」
「生徒たちの成長や学校運営にとってプラスになっているのか?」
「子供の人権を考えるとどうなのか?」
「悪いことをしていない生徒が傷つくようなことは起こっていないのか?」
といったようなことを真剣に考える。
こちらの先生は、
「棒でたたかないと、生徒の悪い行動をやめさせられない。その場では口で「分かった」と言っても、彼らは繰り返すんだ。」
「日本では、どうしているんだ?」
と言う。
考えてみると、
日本で働いていた学校では、教科の教員が毎回授業でコミュニケーションをとって、次には担任がいて、次には学年部長(その学年の担任団の部長)がいて、生徒指導部があって、・・・・・と、段階をふんだ指導があった。
また、起こした問題の程度によって、もし家庭謹慎や登校謹慎(学校内の別室で謹慎)ということがになったとして、教員が家庭訪問を毎日行ったり、反省文を書いてそれについて話し合ったり、自宅学習の状況についてチェックしたりなど、「ただ家にいさせる」だけでなく、「日々改善に向けての指導」をしていく。
こういったように、ただ授業の中で教科担当の教員が注意して終わるのではなく、学校のいろんな部署、たくさんの教員が連携して丁寧に指導を行っていたのである。
「日本では、そういう背景があった上で、生徒一人ひとりと話して指導していたよ」
と説明すると、
「それは大変な手間だ・・・」
と言っていた。
これまで見てきて、担任がきちんと機能しているようには見えないし、生徒指導部というのもなさそうである。毎日勤務時間外に家庭訪問へ行く仕事などは、上からやれと言われても「No」と答えるだろう。
段階をふみつつ担当を変え、時間をかけて丁寧に・・・ということがないなら、
生徒の問題行動を見つけた教員による一回(だけ)の指導で、
「キツイお叱り」というのが必要になるだろう。
それで、「キツイお叱り」=「体罰」
ということになるのかもしれない。
個人的には、彼らの言っていることも分からなくはない。
体罰をしたがらない教員の授業では騒がしくなったりサボりが目立ったりする事実も見てきた。
体罰の厳しい学校では、風紀や出席率、授業態度もよく、結果的に国家試験の結果もよい、という状況もあった。
反対に体罰の緩い学校では、出席率が悪く、授業も締まりがなく、国家試験の結果も芳しくないという状況もあった。
→次回へ続く
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